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単著/共著 |
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論者名 |
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巻番号 |
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対象歌番号 |
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対象歌句番号 |
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歌作者データ |
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参考歌番号 |
235, 238, 241, 3917, 3918, 4013, 4182, 4260, 4261 |
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キーワード |
網爾刺,アミサス,アミニサス,Pierre Guiraud,フレイザー・金枝篇,柳田国男,佐佐木理,文脈説,非言語的文脈,Uiimann,大君は神にしませば,我が大君は,斎藤茂吉,高木市之助 |
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論文要旨 |
巻3・239番歌の第3句アミニサスは、この語によく似た《網を張り設ける》意のアミサスと同意と解することができず、《網を張って捕らえる》というような意味を要請する。《網を張る》という基本的意味では十分理解できない集中のアミサスの用例を考察することで、《張り設ける》意のアミサスのサスが、文脈的意味に於いて意味変化を遂げ、《捕らえる》意へ転じて行ったことを究明し、助詞ニの介在するアミニサスのサスこそその蓋然性の顕現形であり、《捕らえる》意以外の意味ではあり得ないことを明かにする。また、この歌の非言語的文脈に留意し、当該歌が狩猟を詠んだ長歌の反歌であることを確認。その狩猟的性格の239番への反映がアミニサシの句であると述べる。さらに、当該歌の思想が「大君は神にしませば」という成句による型と本質的に同じであることを指摘し、その成句を短く「我が大君は」と要約し、代わりにアミニサシの一句を正面に打ち出した表現を成さしめた力が、この狩猟という特定の非言語的文脈にあることを論証する。「大君は神にしませば」と、「我が大君は」の「大君」に同等の質量を持たせるこことが、人麻呂に於ける「大君」なるものの実体を考える際、相当の意義があることを附言する。"
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