論文タイトル |
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論文サブタイトル |
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単著/共著 |
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論者名 |
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ふりがな |
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発行年月 |
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発表雑誌名 |
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特集タイトル |
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発行所 |
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発行番号 |
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掲載頁 |
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巻番号 |
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対象歌番号 |
29, 30, 31, 45, 48, 167, 168, 169 |
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対象歌句番号 |
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歌作者データ |
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参考歌番号 |
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キーワード |
構成方法,修飾格,記載,口誦,朗詠,神,複文形式,掛詞,尊崇讃美,古へ思ひて,見れば悲しも,逆接,反歌,客観化,対象化 |
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論文要旨 |
人麻呂長歌が、初期萬葉から受け継いだ前半を後半の修飾格とする構成法によって、前半・後半に異質な叙述を行いながら、それらを二重写しにすることで、統一し得ていることを指摘、この構成方法が、皇祖の神と等しく、歴代の天皇、現天皇、さらには皇子達をも神と把握する天皇や皇子に対する尊崇讃美の思想を表現するのに適していることを究明する。しかし、巻1・45「安騎野の歌」では、軽皇子の神としての一面と人間としての一面とは、同じ次元において見ることができず、巻2・167「日並皇子挽歌」においても、「高照らす日の皇子」を掛詞にすることで天孫瓊々杵尊と天武天皇とは本質的に同一であると表現し得たが、これら前半の叙述と挽歌の対象としての日並皇子とは二重写しになっておらず、直接に日並皇子を尊崇讃美する叙述となっていおらず、破綻があること、巻1・29「近江荒都歌」については、前半の讃美の叙述と後半の近江荒都を悲しむ叙述とが、「ども」という逆接の言葉で結合され、二つの感情が異質のままで統一されており、またそれらを統一する感情は、「見れば悲しも」と表現され、前半の叙述は悲しみの感情を強調する働きを担っていることを明かにする。さらに、反歌の役割について、それが感情の客観化・対象化にあることを示し、同様の客観化は長歌においても認められることを指摘。人麻呂作品が長歌から短歌に向かって、主観的な感情から客観的な感情へ、換言すると共通の心情から個人の心情へと変化していることを論証する。"
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