論文タイトル |
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単著/共著 |
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論者名 |
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掲載頁 |
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巻番号 |
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対象歌番号 |
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対象歌句番号 |
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歌作者データ |
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参考歌番号 |
746, 1624, 3945, 3946, 3948, 3950, 3962, 3963, 3964, 3978, 3979, 3980, 3981, 3982, 4019, 4020, 4028, 4048, 4072, 4101, 4102, 4103, 4104, 4105, 4113, 4114, 4115, 4116, 4117, 4118, 4128, 4129, 4130, 4131, 4134, 4138, 4156, 4157, 4158, 4169, 4170 |
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キーワード |
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論文要旨 |
越中時代の家持の歌日記をとおして坂上大嬢の越中下向の時期を推定し、それが家持の作歌生活や、越中歌壇に与えた影響について考察する。越中赴任後の家持の、都に残してきた妻大嬢への思慕を詠む歌が感宝元年閏五月二十六日の「庭中花作歌(4113〜4115)」より後見られぬこと、越中時代の家持作品の四度の多作期のうち、勝宝二年三〜五月における作歌動因としては愛妻大嬢を越中に迎えたこと意外に考えられぬことに着目する。勝宝二年二月二十八日作の巻18・4138番歌に越中国府にある妻への心遣いが感じられることを挙げて、古義などの主張する勝宝二年三月八日作の「潜D47467歌(4156〜4158)」が妻在京を証明する根拠とはなし難いと指摘。大帳使としての上京時期を求める一方、勝宝元年十一月十二日付の池主の書簡および戯歌が大嬢が家持のもとにあったと考えるのにふさわしい内容であることを勘案して坂上大嬢は勝宝元年十月末か、十一月初めころ越中に下向したと推定する。巻19巻頭を飾る越中秀吟開眼の直接の契機として愛妻大嬢の越中来を考える伊藤博氏論を支持するかたちで、明確な証拠を提示すべく考察している。"
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