論文タイトル |
|
論文サブタイトル |
|
単著/共著 |
|
論者名 |
|
ふりがな |
|
発行年月 |
|
発表雑誌名 |
|
特集タイトル |
|
発行所 |
|
発行番号 |
|
掲載頁 |
|
巻番号 |
|
対象歌番号 |
4008, 4025, 4085, 4177, 4251 |
|
対象歌句番号 |
4008-33 ,4025-1,4085-2,4177-21, |
|
歌作者データ |
|
参考歌番号 |
966, 3954, 4032, 4033, 4034, 4035, 4036, 4039, 4073, 4132 |
|
キーワード |
|
論文要旨 |
越中国府と平城京を結ぶ北陸の官道について「之乎路」とする説を否定して「砺波路」であったことを明らかにする。池主、家持の書状にみえる「深見(海)山」の位置や砺波の地名を含む歌、家持の越中着任時に催された宴における歌に詠まれた景観などを例に挙げ、越中国府と越前の往来や京からの越中入りはすべて砺波路経由であったことを述べる。また「之乎路」の誤解は4251番歌の題詞解釈の仕方にあると指摘して、「視送」「於時」の意味解釈を中心に家持の帰京の様相を探る。"
|
|
|
|
|